ページID:6880

更新日:2025年6月6日

ここから本文です。

目次

 

天正期の徳川家康と富士宮

 室町時代から戦国時代の途中まで、駿河国は今川氏が治めていました。しかし今川氏は永禄11年(1568)から翌年にかけての武田氏の駿河国侵攻により駿河国を奪われ、その跡を治めた武田氏も天正10年(1582)3月に織田・徳川氏によって滅びてしまいます。武田氏の後、駿河国を治めるようになるのが、来年の大河ドラマの主人公・徳川家康です。
 家康はこの年の10月、三河国・遠江国・駿河国に加え、かつて武田氏が治めていた甲斐国・信濃国を追加した五か国を治める大規模戦国大名へ成長します。

 ※ ※

 天正期に家康が富士宮市に対して行ったことを3つ紹介していきます。

 まずは本門寺(北山)用水の開削です。これは家康による新田開発の奨励・用水の整備の一環として行われたと考えられます。天正10年11月、井出正次が用水の開削と管理について指示をし、家康の命令によって取水口・用水路の税金が免除され、水が通る村々によって掘り渡されました。

 続いて交通網の整備です。街道や宿の整備は人々の往来や物資の輸送、迅速な情報の伝達・軍隊の移動などの面から重要でした。家康は駿河国・甲斐国を治めることになったことで、両国を結ぶ「中道往還」の伝馬制度の再整備に着手します。伝馬とは公用の信書や荷物を、充てられた宿の人・馬がリレー形式で目的地まで運ぶ制度のことです。市内で伝馬制度の実施が確認できるのが、北から根原宿・上井出宿で、家康はこれらの宿に対して税金などの免除などを行う代わりに、伝馬を務めさせました。

 最後に寺社の保護と諸商売の振興です。その一事例として、浅間大社周辺の復興・再整備があります。家康は井出正次に命じ、戦火で焼けた浅間大社の仮の建物の造営やその領地・祭礼の保護、修理費の運用について定めたり、商人商売の奨励をしたりしました。

 ※ ※

 さて、家康は天正18年(1590)7月、羽柴(豊臣)秀吉の命令で、それまで北条氏が治めていた関東を治めるようになり、駿河国を離れることになります。家康が再び駿河国を治めるようになるのは、関ヶ原の戦い以後のことになります。
 

お問い合わせ先

文化課 

〒418-8601 静岡県富士宮市弓沢町150番地(市役所6階)