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朝霧高原の開拓
写真1 射撃演習後の戦車の整備 写真2 開拓之碑(西富士霊園)
朝霧高原一帯では、広々とした牧草地で多くの乳牛が草を食んでいる様子が見られます。朝霧高原が酪農地帯となっていったのは昭和29年(1954)頃からであり、太平洋戦争の終戦後から開拓に取り組んだ人たちの努力の結果として、現在の光景があります。
今回は、朝霧高原の開拓の歴史について紹介したいと思います。
朝霧高原は、近代にいたるまで周辺の村が共同で利用していた草原の入会地でした(現在、この入会地の一部が「ふるさと文化財の森」の設定地の一部となっています)。
しかし、昭和17年(1942)8月1日に、陸軍少年戦車兵学校が開設され、朝霧高原にはその演習場が設置されました(※写真1 射撃演習後の戦車の整備(出典:遠藤秀男『写真集 懐かしの富士宮』131頁))。
終戦によって、陸軍少年戦車兵学校は廃校となり(校舎跡地は、若獅子神社となっています)、戦車を走らせた広大な演習場は草原として残りました
さて、終戦直後の日本では、戦争で食糧生産体制が打撃を受けた上、海外から多数の軍人軍属、民間人が引き上げて来たことにより、食料不足が大きな課題となっていました。そんな中、政府は食糧自給を図るために農地開拓に取り組むべく「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定しました。
これを受け、旧演習場を含む朝霧高原の広大な未利用の草原に着目した長野県飯田・下伊那地域の人々が、「西富士長野開拓団」を結成し、昭和21年から入植を開始しました。この時、残されていた陸軍少年戦車兵学校の校舎を開拓団の仮宿舎としたそうです。
初期の入植地は「富士丘」、「荻平」、「広見」、「見返」などでしたが、寒冷な気候に加え富士山からの噴出物や山体から崩れた岩石が地表を覆っているため、農業(畑作)で思うような成果が上がらず、栄養失調者が出るほどの厳しい状況であったようです(『富士開拓三十年史』より)。このような状況にもくじけず、開拓団員は粘り強く開拓を続け、大根やキャベツなど寒冷地でも育つ作物を作るなどの工夫をして、定着していきました。
その後、昭和29年に朝霧高原一帯が「高度集約酪農地域」に指定されて以降、酪農を中心とするようになり、試行錯誤を繰り返しながら酪農地帯として成長しました。(写真2:昭和51年に開拓30周年を記念して建立された「開拓之碑」)
今の朝霧高原の姿は、苦難に耐えた開拓団の成果と言えるでしょう。