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寺院と地域の歴史をつなぐ特別コース

2016年06月13日掲載

コース情報や探索会の様子などを写真付きで紹介。
当日時間の都合で話せなかったマニアックな情報も盛り込みました。

コース概要

日 時 平成30年5月19日(土)9時~12時
コース 柚野の里をめぐるコース(歩く博物館Tコース・大鹿窪・下柚野地区)より
集合場所 縄文の里 大鹿館駐車場(富士宮市大鹿窪1556)

柚野は、芝川の流水・丘陵沿いの湧水・柚野山の沢水など、水の豊かなところで、大鹿窪遺跡をはじめとして、縄文時代の遺跡が多いところです。豊富な水を活かして農業・産業が盛んで、幕末の地誌『駿河記』から、柚野の地が果実や茸・桑・綿の生産が多く、水田が少なかったことが窺えます。

また柚野は戦国時代には、浅間神社領(現在の富士山本宮浅間大社)であったことが散見されます。また他の史料を詳しく見ていくと、武田勝頼が「油野之郷」内の「延命寺」や「篠原尾張守」らから、浅間神社の流鏑馬料を徴収したこと、豊臣秀吉の時代には浅間神社領として「油野」21石余が保証されていたことなどが確認できます。

ただし江戸時代は浅間神社の支配を離れたようです。浅間神社作成の寛政11年(1799)の絵図によると、旗本石川大隅守・杉浦修理らの支配地となっています。

1 大鹿窪遺跡

国指定史跡(平成20年3月28日指定)
指定面積:約6,600㎡(全域市有地)

大鹿窪遺跡における解説の様子大鹿窪遺跡における解説の様子

大鹿窪遺跡は、平成13年、静岡県による圃場整備事業に先立ち実施された遺跡の試掘・確認調査によって発見された遺跡です。

同年11月から翌年3月にかけて、約3,800㎡の区域を対象に発掘調査が実施されました。調査の結果、縄文時代草創期(約13,000年前)の遺跡であることが判明し、集落跡を構成した十数基の住居跡が発見されています。集落跡としては最も古い段階のもので、発見された住居跡の数もこの時期としては国内最多です。

現在、「洞窟・岩陰の生活から、開けた平地での定住生活が開始されたことを示す遺跡として重要である」として、国指定史跡に指定されています。

2 福石神社

福石神社の様子今回は氏子会のご厚意で中を見せてもらいました

福石神社は、「大鹿宮」「福石明神」とも称する神社です。現在の祭神は「木花之佐久夜毘賣命(コノハナサクヒメノミコト)」(木花開耶姫命)ですが、神社の古い棟札を見ると他に福石大明神・富士浅間大明神の名前が確認できます。

棟札には元暦元年(1184)に、甘葛太夫源義経が勧請して建立したとありますが、古い史料が少なく詳しいことは不明です。浅間神社が寛政2年(1790)に、寺社奉行所へ提出した「本宮 及末社間数・坪数書上写」を見ると、福石神社は浅間神社の末社で、規模が1間×2間(約1.8m×約3.2m)、社領が1200坪余りあったことが分かります。

境内に合祀されている神社八坂神社(奥)・天神社(右)・ホウ素(疱瘡)神社(左)

右にあるのは境内に合祀された神社です。

ホウ素社については詳細は分かりませんが、天神社・八坂社はもともと別の場所にあった神社です。『柚野村誌』によれば、移される前の八坂神社にはもともと3、40センチの祠と鳥居があったといいます。明治4年(1871)に現在地へ移されたとのことです。

3 山の神(大鹿窪東村)

山の神(奥)と灯籠山の神(奥)と灯籠

山の神は春に山から里に下り秋に山に帰る「田の神」(農業の神)で、祭神は山祇(おおやまつみ)神を祀ることが多いです。1月17日が山の神の祭日で、竹で作った弓矢を奉納します。弓矢の方向について決まりがある場合もあり、例えば山宮地区では表鬼門へ向けて奉納します。

山の神の祭りの日は山で仕事をやってはならず、地区によっては、かつてあらかじめ決められた当番の家で皆が集まって食事をすることもあったようです。

4 三澤寺

三澤寺の旧参道三澤寺の旧参道

三澤寺は日蓮上人の六大弟子の一人、日朗上人を開山(最初の住職)とし、三澤殿(=日弘上人)を開基(創建)とする日蓮宗寺院です。創建年代は鎌倉時代末頃であるとされます。

三澤殿は三澤小次郎(昌弘)であると考えられており、日蓮上人が三澤小次郎に宛てた「三澤抄」によると、当地に「所領あり、妻子あり、所従あり」の人物であり、日蓮の信者であったようです。また寺伝では、日弘上人の祖父は鎌倉幕府の御家人で、当地の地頭職だった三澤小次郎とされています。

三澤寺歴代住持の墓三澤寺歴代住持の墓
本堂の脇から移転

江戸時代の初め頃、三澤寺の10世・日相上人が祈祷によって、鳥取藩主・松平(池田)綱清の病を治したことをきっかけに松平氏の帰依を受けたようです。その際に、本堂・庫裏・七面堂の他、松竹梅と鶴亀が描かれ、武者返しのソリがついた石垣、領地の寄進を受けたとされます。(以上寺伝)

一段高いところにある左の塔が、貞享4年(1687)の年号を持つ「松平家写経供養塔」です。この供養塔は、本堂を寄進した松平綱清の母(芳心院)が施主となり、日相上人が建てたものです。右の塔は、武田氏の家臣・篠原尾張守の子孫で、柚野を支配していた篠原忠左衛門が建立した供養塔です。

七面堂七面堂

右の七面堂は法華経を守護する女神(「七面大明神」または「七面天女」と呼ばれる)を祀る場所です。明治初期の廃仏毀釈運動で解体されましたが、このように再建されました。解体された七面堂は興徳寺の本堂として活用されています。

5 熊野神社

熊野神社熊野神社

熊野神社は熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)の分霊を、深沢氏が勧請したと伝えられます。現在の社殿は昭和8年(1933)に再建されたものです。

神社内には棟札が5点あり、最も古いのが明暦2年(1656)の棟札です。棟札には深澤茂兵衛と水沢惣氏子が願主となり建立されたとあります。他に確認できる年号は、宝永4年(1707)・天明4年(1784)・明治42年(1909)・昭和8年であり、三澤寺の住持が文章を書いています。

6 地神

表面に「地神信敬石」、裏面には文化2年(1805)の年号があり、三澤寺24世・日英が文を書いています。
旧芝川町域には、地神を地域で祀っている所多く、年に2回、春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日に「ぢのかみさん」を祀り、豊作を祈り、収穫を感謝します。

7 大堀(安居山用水)

大堀(右)を歩く大堀(右)を歩く

大堀は芝川の燕堰から取水し、大鹿窪・西山・安居山・沼久保の各地区の水田を灌漑する総延長約12キロの農業用水路です。その起源は不詳ですが、文化13年(1816)に建立された報恩塔(コース地図■)には、武田氏の家臣であった篠原尾張守(蓮甫入道)が芝川から引水したのが始まりとあります。
 
水路沿いには水神碑(コース地図★)があり、今井ヶ沢堤と久保分水の2ヶ所がたびたび破損するので、新たに石垣を積み直し、三澤寺の日英が水神を勧請し、用水を守るために祀ったとあります。

疎水碑本文疎水碑本文

上は昭和30年(1955)3月に建立された碑(コース地 図「疎水碑」)の碑文を、文字に書き起こしたものです。

昭和20年(1945)に富士宮市と柚野・芝富村が協議の上、田地を開拓することになった際に、狭く粗悪であった水路の改修が求められたこと、昭和25年(1950)から県営工事が行われたことなどの経緯が詳しく書かれています。

8 芝瀬川八幡宮

川沿いの石祠が芝瀬川天満宮川沿いの石祠が芝瀬川天満宮

芝瀬川は芝川の別名です。他に真柴川という呼び方もあり、いずれも鎌倉時代初期から確認できます。(『歌枕名寄』)芝瀬川の名前は、シバセヤマと呼ばれた天子ヶ嶽と、その一連の山並みから流れる川であったことによると考えられます。

9 大日蓮華山 興徳寺

日興が身延の地を離れ、上野の地頭南条時光の屋形に入った際、付近の霧ヶ峰に一寺を建立しました。これが光徳寺(後興徳寺に改名)の前身であり、宝暦2年(1752)に現在地へ移転しました。この付近は「押出(おんだし)」と呼ばれ100年に1度大規模な山崩れが発生しており、江戸期に本堂が破壊されました。現在の本堂は、明治期の廃仏毀釈の際に解体された三澤寺の七面堂の資材を利用しています。

また興徳寺は富士山ビュースポットに選ばれており、高台からは柚野と富士山の眺めを楽しむことができます。

興徳寺 興徳寺(今回はご厚意で中も見せていただきました!)

高台より柚野の里を望む(後日撮影) 高台より柚野の里を望む(後日撮影)

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1

電話番号: 0544-65-5151

ファクス: 0544-65-2933

メール : maibun_center@city.fujinomiya.lg.jp

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