「戦国の富士宮」展
2019年07月25日掲載
戦国時代の富士宮の様子について、古文書資料や発掘調査の成果から紹介します。
戦国時代の富士宮市域は駿河国(現静岡県)の今川氏、甲斐国(現山梨県)の武田氏、相模国(現神奈川県)の北条氏の3者の勢力が入り乱れ、争う場所となりました。一方で、戦国時代は、庶民による富士登山がさかんになった時代とされ、富士山への信仰でも新たな展開がありました。
1 戦乱の中の富士宮
河東一乱と富士宮
天文6年(1537)、今川氏の家督継承争いに勝利した義元は、これまで敵対関係にあった甲斐国(現山梨県)の武田氏と同盟を結びます。今川氏と同盟を結んでいた相模国(現神奈川県)の北条氏はこれに反発して今川氏領国へ侵攻し、駿河国東部の各地で戦いが起こりました。
この時、大石寺や北山本門寺は一時的に北条氏の支配下に入ったようです。一方、大宮の浅間神社(現富士山本宮浅間大社)の富士氏は今川氏方として戦うなど、現在の富士宮市域は北条氏方・今川氏方が入り乱れる状況となりました。
この富士川より東の地域(河東地域)をめぐる今川氏と北条氏の争いは河東一乱と呼ばれ、長らくこの地域に軍事的緊張状態をもたらしました。
今川氏の領国支配
今川氏は南北朝時代(14世紀)から、駿河国守護として勢力を拡大していきました。現在の富士宮市域では、今川氏の当主が大宮の浅間神社に対し、土地の寄進や保証を行っています。
今川義元の時代、天文23年(1554)に駿甲相三国同盟が成立し、河東地域の戦乱がおさまると、義元は検地などの政策を通じてこの地域の支配を強化していきました。
今川氏がこの地域へ出した文書には、大宮の浅間神社の神事である風祭への関与を示すものや、大宮で開かれる市について定めたものなどがあります。中でも、大宮の市は今川氏真により楽市とされました。これは戦国大名による楽市の事例では、織田信長より早いものとして知られています。
風祭川
神田市神社(大宮町)
武田信玄の駿河国侵攻と富士氏
永禄11年(1568)12月、武田信玄は駿河国へ侵攻を開始しました。今川義元の子・氏真はこれを薩埵山(現静岡市)で迎え撃とうとしましたが、家臣の裏切りにあい、戦うことなく掛川城へと逃れました(掛川城は後に徳川家康の攻撃によりに開城し、氏真は伊豆国へ逃れます)。
この時、富士氏は今川氏方として大宮城に籠城し、武田軍と戦っています。また、北条氏の援軍が到着したこともあり、武田信玄は一時窮地に陥りました。大宮城の富士氏は翌年2月にも武田軍の攻撃を受けましたが、撃退しています。
しかし、同年7月、武田信玄の攻撃により大宮城は開城し、駿河国は武田氏の支配下となりました。富士氏は大宮城を出た後も今川氏・北条氏方として戦いますが、元亀2年(1571)に今川氏真のもとを離れ、武田氏方となりました。
元富士大宮司館跡
元富士大宮鵜司館跡の発掘
元富士大宮司館跡は、大宮小学校周辺に広がる平安時代~戦国時代の遺跡です。
昭和59年(1984年)、富士山本宮浅間大社の東側、現在の大宮小学校の地中から、富士山本宮浅間大社の神官であり武人であった富士大宮司の屋敷跡が初めて発見され、これまでに5回の発掘調査が行われました。
発掘調査により富士大宮司館は4回の改修が行われたことや、12世紀から16世紀までの約450年間にわたって大宮町周辺を支配していたことが明らかになっています。
当時、「大宮城」と呼ばれていましたが、この時期の城はまだ立派な石垣や天守閣をもつものではありませんでした。
2 富士山信仰と社会
山宮浅間神社遺跡
山宮浅間神社の遥拝所
山宮浅間神社遺跡は、富士山西南麓の標高400m付近、山宮浅間神社境内を中心とする地域が遺跡範囲です。
発掘調査では、遥拝所や石塁の下、その周辺から、祭祀の際に使われたと考えられる土師器皿が多数出土しました。その他に、中国産の陶磁器である青磁や白磁の碗や皿、愛知県の常滑や渥美、瀬戸で作られた陶器の甕や鉢、壺、皿などが出土しました。主に遺物が使われた時期は12世紀中頃~15世紀の中世で、遥拝所や石塁もそのころに作られたと考えられています。
村山浅間神社遺跡
村山浅間神社遺跡は、富士山南西麓の標高500m付近、村山浅間神社・冨士山興法寺大日堂やその周辺を中心とする地域が遺跡範囲です。発掘調査は境内地とその周辺で行っています。
現在の社殿東側高台の平坦地で、「大棟梁権現社」の跡と考えられる礎石建物跡が発見されました。建物跡の周囲からは、花瓶や香炉などの仏教具や燈明皿や徳利、中世の銭や写経石が出土しています。
また、護摩壇の裏手斜面からは、竈と炉を持つ平安時代中ごろの竪穴住居跡と溝状遺構がみつかりました。この住居跡からは山梨県で作ったと考えられる甲斐型土師器や甕、静岡県西部で作られた灰釉陶器の壺が見つかりました。
村山浅間神社と冨士山興法寺大日堂
村山浅間神社遺跡の発掘調査
富士山修験の展開と戦国
富士山で活動した山伏の起源は詳しくは分かっていません。しかし、戦国時代になると、村山の興法寺を拠点に富士山で活動する山伏の様子が古文書等の資料に現れます。興法寺では、後に村山三坊と称される大鏡坊、池西坊、辻之坊をはじめとして、多くの山伏たちが活動していました。資料には、山伏が富士山に出仕し、「国家の祈念」を勤めていたことなどが記されています。
今川氏は、こうした村山の山伏に対して、富士山中にある施設の支配を保証したり、駿河・遠江両国の山伏の統率を命じたりしています。また、富士山中の支配をめぐる山伏の訴訟に対して裁定を下すこともありました。戦乱の中、今川氏は山伏のネットワークを利用して情報収集を行っていたとも考えられています。
戦国時代の村山周辺の様子
開山祭で護摩焚きを行う山伏(平成30年撮影)
戦国時代の富士登山
戦国時代の富士登山の様子は絹本著色富士曼荼羅図(国指定重要文化財、富士山本宮浅間大社所蔵)に描かれています。この絵画には、大宮の浅間神社、村山の興法寺、富士山中の中宮八幡堂・御室大日堂などを経由して富士山頂を目指す道者(富士登山者)の姿が描かれています。この絵により、当時から富士登山がさかんだった様子をうかがうことができます。
富士登山の盛況に伴い、道者坊(道者の宿泊所)など、富士登山の環境も整備されたと考えられます。享禄・天文年間(1528-1555)には、大宮に30余りの道者坊があったとする記録もあります。また、今川氏は、村山に対して、富士登山期間中の道者の取扱いなどについて定めた掟書を出しています。
戦国時代の大宮周辺の様子
現在の富士登山と登山道
3 中世から近世へ
武田氏の支配と浅間神社
今川氏真が駿府を退去した後、駿河国は武田信玄の支配下となります。武田氏は大宮城の改修を行ったほか、家臣の鷹野徳繁を大宮の浅間神社に送り込み、社内の統制や神職の再編成を行いました。また、社殿の造営も行われ、この社殿は天正6年(1578)に完成して遷宮が行われました。
一方、武田氏の攻撃により大宮城を開城した富士氏は、この地を離れますが、信忠の子・信通の代に再び大宮の浅間神社の大宮司となりました。しかし、かつてのような軍事的役割は薄れ、大宮司としての宗教的な役割が強くなっていきました。
その他、武田氏の政策として、駿河国と甲斐国を結ぶ中道往還(甲州街道)における伝馬制度の整備や麓金山の開発、1月に6回の大宮西町新市の設置などが挙げられます。
勝之橋(かつのはし)
山本勘助誕生地石碑
徳川家康の駿河国侵攻と支配
天正3年(1575)の長篠の戦い以降、武田氏の勢力は徐々に後退していきます。天正10年には、織田氏、徳川氏、北条氏らの侵攻により武田氏は滅亡しました。この戦乱のなか、大宮の浅間神社は焼失したとされています。なお、織田信長は甲斐国から本拠地の安土城へ帰る際、富士山の見物をしながら中道往還を通って大宮に宿泊し、徳川家康の接待を受けました。
武田氏滅亡後、駿河国は徳川家康の支配下となります。家康は現在の富士宮市域において、井出正次に命じて本門寺用水(北山用水)の開削を行ったり、戦乱で疲弊した上井出宿の復興を行ったりしています。
本門寺堀用水発祥之地石碑
本門寺用水(北山用水)の取入れ口
近世の富士宮へ
富士山本宮浅間大社本殿(国指定重要文化財)
天正18年(1590)、豊臣秀吉が関東の北条氏を滅ぼすと、徳川家康は関東へ転封となり、駿河国には秀吉の子飼いの家臣である中村一氏が入りました。
中村一氏の支配は家臣の横田村詮を中心に行われました。村詮は、検地の行われた村々に対し、「横田村詮法度」と呼ばれる文書を出しています。そこでは、年貢の納め方や、夫役(労働役)の負担について定めています。また、百姓間の争いごとを自力で解決することを禁止する(中村氏の奉行人に訴えるように定める)といった規定が見られます。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、中村氏は転封します。その後、駿河国は徳川家康と関係の近い大名や、駿河代官の井出正次による支配が行われ、江戸時代へとつながっていきます。
展示会関連講座配布資料
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「戦国時代の富士宮」展 講座配布資料
(PDF 3206KB)
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