「江戸時代の北山」展
2019年03月08日掲載
北山村の支配者や北山用水の開削・維持管理について紹介します。
旧北山村役場文書は、かつての北山村役場に伝来した資料群で、現在は富士宮市教育委員会が保管しています。江戸時代から明治時代までの995点の資料があり、当時の北山村の様子を知ることができる貴重な資料です。
富士宮市教育委員会では、この資料群について、資料の分類・整理作業、解読作業を行い、平成29年度に『旧北山村役場文書』として刊行しました。
1 北山村の概要
北山の歴史と周辺環境
北山村は江戸時代から昭和33年(1958)までの村名で、現在は富士宮市の大字になっています。かつての駿河国(現静岡県)と甲斐国(現山梨県)を結ぶ主要道であった中道往還(甲州街道)上に位置しており、地区内には北山本門寺や本妙寺など、鎌倉時代の創建とされる日蓮宗寺院が所在します。
北山の地名を史料上で最初に確認できるのは南北朝時代の康永4年(1345)で、浅間神社(現富士山本宮浅間大社)の大宮司・富士直時の譲状写に「北山郷」と記されています。戦国時代には、今川氏真の朱印状から、北山の山造(山作)が大宮城や興国寺城(現沼津市)の普請に関わっていたことが分かります。また、天正年間(1573—1592)には、北山用水(本門寺用水)の開削も行われました。
北山本門寺
北山本門寺のスギ(静岡県指定天然記念物)
「北山用水絵図」の北山周辺(朱線が中道往還)
中道往還沿いにある石造物
2 北山村の支配者
寛永元年(1624)8月、駿府徳川藩が成立すると、北山村もその支配下に入りました。駿府徳川藩は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の二男・徳川忠長が藩主でしたが、忠長には数々の失態や奇行があったとされ、8年後の寛永9年(1632)に改易されます。
その後、北山村は幕府領となり、一時期を除き、大宮代官・駿府代官による支配が行われます。安永7年(1778)ころには旗本松平氏が領主となり、松平氏の支配は幕末まで、およそ90年間続きました。
旧北山村役場文書には、年貢割付状※1や年貢皆済目録※2などの資料が数多く残り、村の支配者やその変遷を確認することができます。
※1年貢割付状…村が納める年貢の額や時期を記した通知書。
※2年貢皆済目録…年貢の納入後、領主が発行した領収書。
支配者 | 支配期間 |
---|---|
徳川忠長 | 寛永元年(1624)~寛永9年(1632) |
大宮代官(幕領) | 寛永10年(1633)~元禄5年(1692) |
駿府代官(幕領) | 元禄5年(1692)~元禄10年(1697) |
旗本安藤氏 | 元禄11年(1698)~享保11年(1726) |
駿府代官(幕領) | 享保11年(1726)~安永6年(1777)ヵ |
旗本松平氏 | 安永7年(1778)~慶応4年(1868) |
旗本領主松平氏
安永7年(1778)ころに北山村の領主となった松平氏は、譜代大名形原松平氏の分家筋にあたります。寛永15年(1638)に氏信が本家から分かれ、武蔵国と下総国に知行地を持っていましたが、元禄11年(1698)に駿河国東部へと移されました。
その後、安永6年(1777)の沼津藩成立に伴い、領地の再編成が行われ、北山村が知行地に加わったと考えられます。旧北山村役場文書に残る資料から、松平氏は、駿河国富士郡・駿東郡において、北山村を含めて15の村々を支配していたことが分かります。
年号(西暦) | 知行村(相給村を含む) | 典拠 |
---|---|---|
元禄15年(1702) | <富士郡>下条、上稲子、下稲子、厚原 <駿東郡>葛山、金沢、上ヶ田、本宿、上石田、中石田、徳倉 | 「諸国郷帳」 |
安永7年~慶応4年(1778~1868) | <富士郡>下条、上稲子、下稲子、青木寄合、北山、淀師、大岩、粟倉、厚原、入山瀬、松本、元市場 <駿東郡>葛山、金沢、上ヶ田 | 旧北山村役場文書 |
財政逼迫と知行村の負担
旗本の困窮は寛永年間から始まっていたと言われます。江戸時代後期になると、多くの旗本領主が慢性的な財政難に陥り、知行村(支配する村)に先納金を賦課するようになりました。
先納金とは納期日以前に現金で納めさせる年貢のことで、いわば、領主による年貢の前借りです。北山村は他所から借金してまでも、松平氏に先納を続けました。
しかし松平氏の財政は好転せず、領主を支えるために知行村の負担が増加します。毎年、賦課金額以上の年貢を納める「過納」状態になり、安政4年(1857)には知行15ケ村の過納総額が3000両を超えました。
3 北山用水の開削と利用
北山用水の開削
北山用水の取入れ口(井口)
北山用水(本門寺用水)は天正10年(1582)、甲斐国の武田氏の滅亡後、北山本門寺の願いにより、徳川家康の命を受けた井出正次が開削したと言われています。資料によると、内野横手沢で芝川から取水し、井口(取水口)は100間(約181m)四方、水路の長さは2里余(約7.9km、井口から北山本門寺までの距離とほぼ同じ)、堀の幅は3間(約5.4m)あったとされています。
この用水は、開削の経緯から、本門寺用水・本門寺用堀などと呼ばれてきました。後に延長され、外神・宮原・山宮・万野原などの下流域にまで水を運ぶようになり、北山用水と称されました。
用水の維持管理
大久保沢掛樋
北山用水は猪の窪川(犬久保沢)、邯鄲沢、潤井川(無間ヶ谷沢)・大久保沢といった大小様々な沢をまたぎ、上井出・狩宿・北山・外神・宮原・山宮・万野原などの広大な地域に水を運びました。沢には木製の箱樋を掛けたり(掛樋)、箱樋を地中に埋めたりして通水しました。また、用水路周辺には堰とよばれる構造物もありました。
樋・堰は、経年による腐食や風水害により、度々消失しました。その際、用水組合が費用を負担する自普請や領主が費用を負担する領主普請により用水の維持・管理が図られました。
北山用水絵図
文久2年(1862)以降の北山用水の様子を描いたものと考えられます。
北山用水絵図(全体)
拡大図(用水の取入れ口)
拡大図(掛け樋)
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