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「富士に息づく文学碑」展

2018年02月20日掲載

市内に数多く建立された句碑・歌碑を中心に、富士宮における文学の担い手たちを紹介します。


江戸時代、俳人・渋谷六花や中野梅市は中央の文化を郷土にもたらし、地域文化の向上に寄与しました。その後、当地では俳句・短歌といった文化活動が一層隆盛していきました。

奉納額古田観音堂(羽鮒)に掲げられた俳額(大正5年)
地域の人々が詠んだ俳句九〇句余りが書き連ねられている。

六花と梅市 —江戸時代の郷土の俳人—

渋谷六花(しぶやろっか)(一六七一~一七五〇)

六花は、寛文一一年(一六七一)、駿河国富士郡大宮町(現富士宮市)に生まれた。松尾芭蕉の高弟である「蕉門十哲」の一人 服部嵐雪(一六五三 ~一七〇七)に師事して俳句を学び、俳号を「梅富軒」と称した。沼津に居住し、同地を中心に俳門の師匠として活躍した。六花は、寛延三年(一七五〇)に七九才で没した。東漸寺(市内安居山)にある六花の墓には、辞世の句「夢の世を幻に出る死出の旅」が刻まれている。
六花の子 玄石も「梅富軒」と号し、父と同じく沼津を中心に活動した。玄石の門弟 松木乙児は、宝暦一三年(一七六三)、本国寺(現富士市吉原)付近に庵を結び、師匠の名から取って「六花庵」と号した。六花庵は、その後、岳南地域に俳句の隆盛をもたらした。

墓碑辞世の句が刻まれた六花の墓碑(東漸寺)

雪花亭梅市(せっかていうめいち)(一七六二 ~一八二九)

梅市は、文化・文政期(一八〇四~一八三〇)に活躍した女流俳人である。名を光(美都)といい、黒田村(現富士宮市黒田)名主中野与十郎の妻であった。
寛政五年(一七九三)、梅市は、領主渡辺右衛門より江戸での出仕を命ぜられた夫とともに江戸に移住した。そこで、葛飾派の加藤野逸(其日庵四世)に俳諧を学び、やがて「雪花亭梅市」の俳号を師から与えられるまで上達した。葛飾派(葛飾正門)は、松尾芭蕉や小林一茶とも関係する近世俳壇の名門中の名門であった。
梅市は、文化五年(一八〇八)、「俳諧最初心得之条々」を著し、それをもとに俳諧の活動を続けた。また、黒田村に帰ると間もなく、文化二年(一八〇五)、中野家近くにある本光寺(富士宮市黒田)に師野逸の句碑を建てた。
梅市は文政一二年(一八二九)、六七歳でその生涯を閉じた。墓碑には辞世の句が刻まれている。

梅市辞世の句が刻まれた梅市の墓碑

富士宮の文学碑一覧

富士宮市内には、数多くの文学碑(句碑・歌碑)がある。本展示会では、このうち37基を紹介する。

詳しくは、「富士宮市の文学碑一覧」をご覧ください。

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郷土ゆかりの文学者たち

高濱虚子(たかはまきょし)と狩宿の下馬ザクラ

高濱虚子(一八七四~一九五九)は、明治~昭和に活躍した俳人・小説家である。正岡子規に師事し、子規派の文芸誌「ホトトギス」を主催した。また、数多くの門人を育て、明治~昭和の俳壇に大きく貢献した。
昭和三三年四月十四日、虚子は、弟子堤俳一佳が主宰する俳誌「裸子」の吟行句会のため富士宮を訪れた。白糸の滝、狩宿の下馬ザクラ、浅間大社に立ち寄った。狩宿には、虚子が詠んだ「花見にと馬に鞍置く心あり」の句碑が建っている。この句は、富士の巻狩の折に源頼朝が馬をつないだ「駒止の桜」と伝わる狩宿の下馬ザクラを詠んだもので、昔の人が花見に出掛けようとして馬に鞍を置いた時と同じ心になっているという意である。なお、虚子は翌年没しており、その最後の旅行地が富士宮であったことは感慨深い。

句碑虚子の句碑(沼久保)

堤俳一佳(つついはいいっか)と俳誌「裸子」

堤俳一佳(一九〇四~一九九四)は、富士宮市を拠点として活動した俳人である。昭和初期から「ホトトギス」に投稿し、高濱虚子と強い師弟関係を結んだ。昭和二四年(一九四九)には、俳誌「裸子」を創刊した。俳一佳は、国鉄職員として山梨県・長野県で駅長を歴任、「裸子」刊行前後から富士宮市に居住し、退職後、本格的に活動を始めた。
なお、「裸子」は、俳一佳没後は、平成六年(一九九四)からは堤高嶺主宰、平成二三年(二〇一一)からは堤信彦主宰に引き継がれ、現在に至っている。

句碑俳一佳の句碑(沼久保)

原田濱人(はらだひんじん)

原田濱人(一八八四~一九七二)は、静岡県浜名郡(現浜松市)出身の俳人。大正三年(一九一四)に「ホトトギス」に初入選。翌年には虚子を京都に訪ね、その秋には虚子が濱人の自宅を訪れるなど交流を深めた。
濱人は、教師として各地に赴任し、大正一一年(一九二二)に沼津中学校に赴任したことから駿東郡・富士郡の俳句同好者を数多く指導した。またこの年、濱人は虚子の俳風を批判して「ホトトギス」を脱退、以降昭和一四年(一九三九)に交流を再開するまで両者の関係は断たれる。昭和七年(一九三二)、母校浜松第一中学校(現浜松北高校)に転任、昭和十四年には俳誌「みづうみ」を創刊した。
濱人は郷土の自然の中に舞台を見出す俳風で知られ、県内多くの門人を育成した。

句碑濱人の句碑(狩宿)

山口誓子(やまぐちせいし)と富士山

山口誓子(一九〇一~一九九四)は、京都府出身の俳人で、高浜虚子に師事し、昭和初期に「ホトトギス」で活躍した。後に同誌を離れて水原秋桜子の文芸誌「馬酔木」に参加し、新興俳句運動の指導者として活躍、俳句の近代化に貢献した。
誓子の作品には山岳を扱ったものが多いとされ、とくに富士山を題材にした作品は一三〇句を超えるという。誓子は、昭和四六・四七年(一九七一・一九七二)と二年続けて富士山登頂を果たしている。山頂には、第一回登頂時の作品「下界まで断崖富士の壁に立つ」の句碑がある。時に誓子七四歳であった。

句碑誓子の句碑(富士山頂)

上田五千石(うえだごせんごく)と山開き句碑

上田五千石(一九三三~一九九七)は、秋元不死男(ふじお)に師事し、「氷海」や「子午線」に参加、その後昭和四六年(一九七一)に俳誌「畦」を創刊した。五千石は、俳句の理念を「眼前直覚」と捉え、「いま、われ、ここ」を詠うという俳句の原点に立ち戻ることを唱えている。一四歳から富士市に居住し、 昭和五八年(一九八三)に東京に移り住むまで富士地区を拠点に活動した。
また、五千石は、富士山の開山に合わせて度度登山を行ったことでも知られる。山開きを詠った句も多く、せせらぎ広場には、「山開きたる雲中にこころざす」と刻まれた句碑がある。この句は、富士山の開山に際し、あいにく雲に閉ざされ目指す頂上は見えないが、日本一の山富士山であるから、志を高く持って頑張ろうという意であろうか。

句碑五千石の句碑(せせらぎ広場)

富士宮の文学の今・これから

富士宮俳句協会

昭和四九年(一九七四)、市内で活動する俳句同好者たちが、種々の考えや傾向を超えた地域の俳句振興を目的に創立した。歴代会長には、富士宮市の俳句会をリードする人々が名を連ねる。定例俳句会や吟行会を毎月開催したり、会員の作品をまとめた合同句集「神立」を発刊したりするなど、地域の文化の向上に寄与してきた。平成二六年(二〇一四)には、創立四〇周年記念俳句大会を開催、記念誌を刊行した。

富士宮を拠点とする主要な俳句結社

  • 鬼灯(ほおずき)俳句会  佐野鬼人主宰、昭和五〇年(一九七五)創立、俳誌「鬼灯」刊行(創刊~三〇〇号まで月刊誌、以後季刊誌)。
  • 甘藍(かんらん)俳句会  いのうえかつこ主宰、平成一〇年(一九九八)創立、月刊俳誌「甘藍」刊行。
  • 湧(ゆう)俳句会   甲斐遊糸(ゆうし)主宰、平成一九年(二〇〇七)創立、月刊俳誌「湧」刊行。

富士宮市の俳句振興

  • 「富士山を詠む俳句賞」  平成一五年(二〇〇三)から開催、毎年国内外から四千句前後の投句がある。募集時期は富士山の開山期であり、全国の俳句愛好家の風物詩となっている。
  • 「ねんりんピック静岡大会俳句交流大会イン富士宮」  平成一八年(二〇〇六)に開催、事前投句六〇〇〇句、当日参加者七〇〇人を数えた。審査員は、俳人協会・現代俳句協会・日本伝統俳句協会から最前線で活躍する先生方が務めた。
  • 「富士山周辺吟行歳時記」  平成二五年(二〇一三)刊行。編集は富士宮俳句協会が行った。

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1

電話番号: 0544-65-5151

ファクス: 0544-65-2933

メール : maibun_center@city.fujinomiya.lg.jp

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