「富士講と人穴」展
2017年07月18日掲載
人穴富士講遺跡と、そこを訪れた人々について、富士宮市教育委員会が平成25年度以降に実施してきた調査の成果をもとに紹介します。
人穴富士講遺跡は史跡富士山を構成する要素のひとつで、富士山の溶岩流により形成された洞穴人穴と、富士講の人々により造立された碑塔を中心に構成されます。洞穴人穴は長谷川角行が修行したとされ、江戸時代以降、富士講の人々が多く参拝に訪れました。
碑塔群と富士山
1 溶岩洞穴と人穴村の歴史
洞穴人穴と仁田四郎の探検
洞穴人穴入口
洞穴人穴は新富士火山旧期溶岩流(約11,000-8,000年前)に属する犬涼み山溶岩流により形成された溶岩洞穴である。溶岩流の表面が固まった後、内部の溶岩が流出したことにより形成されたと考えられている。洞穴の全長は約83mを測る。
現在、歴史資料の中で人穴の記述を最初に確認できるのは、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』である。建仁3年(1203)、鎌倉幕府2代目将軍・源頼家が富士の巻狩(大規模な軍事演習)を行った際、御家人の仁田四郎忠常に命じて人穴を探検させたという。
仁田四郎の主従は6月3日に人穴に入るが、その日は戻らず、翌4日に帰参した。主従は穴の中で「奇特」を見、郎従4人が死亡したという。また、土地の古老はこの穴は「浅間大菩薩の御在所」で、探検は恐れ多いことだと語ったという。
近世の人穴村
絵図に記された近世の人穴宿の様子
人穴は、駿河国と甲斐国を結ぶ街道(中道往還)沿いに位置しており、地名は洞穴人穴に由来すると考えられる。天正11年(1583)には、「人穴宿」を「不入」とする徳川家康の朱印状を受けている。
近世の人穴村は江戸幕府領で、資料によると石高は44石余、家数は26軒から28軒とある。元文3年(1738)頃までは赤池家が名主を勤めた。その後、交代で名主を勤めた時期があったが、天保3年(1832)には、再び赤池家が名主を勤め、万延元年(1860)まで勤め上げた。赤池家は、人穴の参拝に訪れる富士講の人々の世話をし、夏場は富士登山者でにぎわったという。
2 富士講のはじまりと流行
長谷川角行と人穴
角行の二百回忌に造立された宝篋印塔
長谷川角行は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、人穴で修行したとされる行者である。
江戸時代にまとめられた伝記によると、角行(俗名武邦)は天文10年(1541)に長崎で生まれ、永禄元年(1558)に初めて人穴を訪れたという。そこで角行は4寸5分四方の角材の上につま先立ち、一千日の行を行い、仙元大日神より角行東覚の名を授かったという。その後、人穴を中心に各地で大行をなし、正保3年(1646)に人穴で大往生を遂げたとされる。
角行の事蹟には伝説的なものが多く、事実とは考えられない部分も多い。しかし、角行が江戸時代に富士講の開祖とされたことから、人穴は富士講の聖地とされ、多くの人々が参拝に訪れる様になったと考えられる。
江戸の富士講
富士講は富士山を信仰する人々の集まりで、先達と呼ばれる人を信仰の指導者とし、月拝みや代表者による富士登山(代参登山)などの活動を行った。
人穴では、富士講が流行する前の江戸時代初期から、角行の系譜を継ぐとする修行者の活動があったとされる。しかし、富士講が庶民の間で急速に広まるのは、食行身禄が享保18年(1733)に富士山七合目の烏帽子岩で断食往生を遂げてからである。以降、多くの講社が組織された。
講社は富士登山の前後に角行が修行をしたという人穴にも参拝し、富士登山の記念や、先達の顕彰のため、碑塔を造立した。
富士講の現在の活動
丸嘉講田無組中里講社(中里の火の花祭り)
富士講の活動は、明治時代における再編や、太平洋戦争による中断など、様々な社会的影響を受けてきた。また、戦後には生活環境の大きな変化もあり、東京都心部を中心に、多くの富士講が活動を停止した。
一方で、東京都の多摩地区や埼玉県、千葉県など、都心部の周辺地域では、現在でも富士講の活動が継続している。毎年の富士登山のほか、月拝みや星祭など、講社の所在地でも様々な活動を行っている。
また、山梨県富士吉田市で6月30日・7月1日に行われる開山祭や、8月26日に行われる吉田の火祭りの際には、多くの富士講が集合する。
富士塚と開山祭
富士塚の開山祭(下谷の富士塚、東京都台東区)
富士塚は富士山を模して造立されたもので、富士山に登れない人でも、富士塚に登ると富士登山と同様のご利益が得られるとされた。関東地方を中心に各地で造立され、開発等により消滅したものもあるが、現在でも多くの富士塚が残されている。中には、富士山の溶岩を用いて築いたものや、各登山道や合目の表示をしたものもある。
また、一部の富士塚では、現在でも富士山の開山に合わせて富士塚の開山祭が行われる。この時は普段閉鎖している富士塚も一般客向けに開放され、多くの見物客・参拝者が集まる。
3 赤池家と人穴を訪れた人々
赤池家と富士講
赤池家古写真(大正時代)
富士郡人穴村に所在した赤池家では、人穴に参拝に訪れる富士講の世話をしていた。行者が休泊に利用した他、講社が洞穴周辺に碑塔を造立する際には、資金を預かり代わりに造立をするなどしていた。
また、講社に対し、洞穴内で採集した土を乾燥させ、袋に詰めた「おあか」を授与していたという。これは、発熱や傷など、様々な難症に効果があったという。
明治時代以後も、赤池家は人穴で宿泊業を営み、富士講の人々を迎え入れていた。しかし、太平洋戦争中に赤池家が北山村へ移ったため、富士講との関わりは次第に薄くなっていった。
碑塔造立
碑塔群
現在の人穴富士講遺跡内には、17世紀から20世紀にかけて造立された碑塔が200基以上残されている。中には富士講とは異なる集団が造立したと考えられるものもあるが、ほとんどは富士講の人々により造立されたものである。
碑塔造立の目的は、長谷川角行など講祖や、先達の供養等を目的とするものが最も多い。また、「南無浅間大菩薩」や「富士浅間大神」と刻まれた祈願奉納碑、「富士登山六十四度」、「四十度大願成就」などと刻まれた顕彰記念碑なども存在する。
また、碑塔には様々な形態があり、中には丸嘉講のように、講としての信仰上の理由から、自然石を用いた碑塔を造立したと考えられる事例もある。
様々な碑塔
山玉講造立の碑塔
丸参伊藤講造立の碑塔(石灯籠)
丸嘉講造立の碑塔(自然石型碑塔)
現在の人穴参拝と祭礼
富士講の活動停止などにより、富士講による人穴参拝は減少した。しかし、扶桑教や冨士教など、一部の講社は現在でも人穴に参拝し、祭礼を行っている。
扶桑教は明治時代に複数の富士講を取り込む形で成立し、現在は東京都に本部を置く。毎年7月、富士登山の前に人穴に訪れる。車で人穴に到着すると、先達を先頭に「六根清浄 お山は快晴」と唱えながら参道を進み、人穴浅間神社に昇殿・参拝の後、洞穴へと入り、中でオガミを行う。穴から出た後、角行の墓所とされる場所へ行き、再びオガミを行う。
冨士教は現在、碑塔の前での祭礼のみを行う。
冨士教の祭礼
扶桑教の祭礼
お問い合わせ
教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター
〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1
電話番号: 0544-65-5151
ファクス: 0544-65-2933