「食の民具」展
2017年03月28日掲載
展示期間:平成29年3月18日(土)~平成29年6月25日(日)
民具とは、人々が生活していく中で作られ、使用されてきた、さまざまな用具のことです。使用目的によって、生活に関するもの、農業などの仕事に関するもの、婚礼や葬送などの村での社会生活に関するものなどに分けられます。本展では、私たちの生活に直結する「食」に関する民具を通して、いろいろな場面での食について紹介します。
日常の食事の民具
調味料の民具
味噌や醤油と言った調味料は、かつては各家庭で作っていた。味噌は大豆・麦麹・塩を混ぜ、醤油は大豆・小麦・豆麹・海水を混ぜた「もろみ」を、農閑期の秋から冬にかけて仕込んだ。一年ほど発酵させ、醤油絞りの職人に家に来てもらい、絞ってもらった。このような光景は、昭和40年代ころまで見られた。
味噌樽(左)と醤油樽(右)
醤油絞り機
炊事・調理の民具
毎日の調理に使う民具には、羽釜やせいろ、こね鉢、鰹節削りなどがある。現在も調理器具として使われているものも多い。
囲炉裏があったころは、自在かぎを囲炉裏の上から吊るし、鍋や鉄瓶を掛けて汁物などを温めていた。
羽釜(左)とこね鉢(右)
鰹節削り
囲炉裏
食卓の民具
ちゃぶ台で食事をする以前は、家族が同じ食卓を囲むのではなく、ひとりずつ箱膳を使用していた。箱膳には一人前の食器(飯碗・汁碗・小皿・箸)が入っており、食事のときは蓋を裏返して飯台にした。食後は茶碗に湯を注ぎ、湯を飲んだあとに蓋をして収めた。現在のように食事の度に食器を洗うことはせず、月に数回洗う程度だった。
箱膳
飯びつ
徳利
農繁期の食事
農家の食事の回数は、現在と同じく朝・昼・晩の3回だったが、農繁期には、早朝の食事(チャノコ・オチャノコ)や午後の間食(ユージャ・オユージャ)が加わって一日に4~5回食事をとることもあった。昼は午前10時から11時、ユージャは午後2時から3時、夕飯は午後8時くらいだった。弁当にはめんぱの身と蓋に飯をつめて、持っていった。
めんぱ
茶やな
ハレの日の食ー年中行事ー
ハレとケ
「ハレとケ」とは、日本人の生活リズムを表した言葉で、「ハレ」の日は、年中行事や冠婚葬祭などの特別な日を指す。ハレの日にはご馳走を食べたり、家の中や外に特別な装飾をしたりする。これに対して、通常の日のことを「ケ」と呼ぶ。ケの日の中にハレの日があることで、人々の生活に変化が生まれる。
現在は生活様式が変化し、かつてはハレの日にしか食べられなかったものでも普段から食べられるようになり、ハレとケの区別は曖昧になっている。しかし、特別な日に着るものを「晴れ着」と呼んだり、大切な場面のことを「晴れ舞台」などと言ったりすることから、「ハレとケ」の概念は人々の意識の中に根付いていることがわかる。
ハレの日の食事
ハレの日の代表的な食といえば、「餅」と「赤飯」があげられる。古くから米は貴重なもので、その米から作られた餅や赤飯は、特別なときにしか食べられないものだった。餅には特別な力が宿ると考えられ、正月に子供たちが楽しみにしている「お年玉」も、もともとは餅だったといわれる。赤飯は、誕生祝いや七五三などの祝いの行事に用いられ、市内ではオブッコ(オボッコ)と呼ばれる赤飯のおにぎりが、集落の祭礼や行事などで配られる。
火伏念仏の鏡餅(白糸・内野)
カワカンジョウのオブッコ(下羽鮒)
富士宮市の行事食
参考:『民俗調査報告書』(富士宮北高等学校郷土研究部、1972)、市内各区誌 ほか
このほかにも、集落によってさまざまな行事食がある。
行事名 | 食べ物(お供えも含む) |
---|---|
正月(1/1) 七草(1/6・7) 小正月(1/14・15) 山の神(1/17) |
おせち料理、雑煮 七草粥 どんど焼きの団子・小豆粥 オヒラ(ゴボウ・人参・こんにゃく・椎茸・昆布結び・れんこん・タケノコの煮物)、茶飯、味ご飯、赤飯 |
次郎朔日(2/1) 節分(2/3) 初午 | 雑煮、モチバナ 大豆、いわし オブッコ(赤飯おにぎり) |
春の彼岸 | ぼたもち |
桃の節句(4/3) ※市内では月遅れで行われる。 | ひし餅、白酒、あられ |
端午の節句(5/5) | 柏餅 |
八朔(8/1) 盆(8/13~16) 彼岸 | 赤飯 そうめん、おにぎり、赤飯、おはぎなど おはぎ |
十五夜・十三夜 | 里芋・さつま芋などの農作物(十五夜はそのまま、十三夜は煮物)、小麦饅頭、月見団子 |
冬至 | かぼちゃの煮物 |
おひまち | オブッコ、赤飯 |
大晦日(12/31) | 年越しそば |
七草粥と小豆粥
七草粥は、春の七草(セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ)を、粥の中に入れて炊いたもので、七草に限らず、その時に手に入るもので作った。七草粥を1月7日の朝に食べると、無病息災で過ごせるといい、多くの家庭で行われてきた。小豆粥は、小正月(1月15日)に作る料理で、どんど焼きの燃え残りで煮た。神棚に供えたり、人間が食べたりするほか、柿の木などを叩き、よく実るように願う「成木責め(なりきぜめ)」にも使われた。小豆粥をかけ、「ダイノコ」というヌルデの木の棒で、叩いてまわったという。
七草を叩く
どんど焼きの団子
古文書に見る講と食事ー恵比寿講ー
恵比寿講は福の神である恵比寿をまつる行事で、主に正月20日と10月20日に行われた。
江戸時代末期に大宮町の役人を務めた佐野与市(角田桜岳)の日記には、人々の生活の様子が詳しく記され、安政7年(1860)正月20日の記事には、恵比寿講の記述がある。
日記によると、恵比寿講の日、商家では「朝ヱビス」といって赤飯や膾(なます)汁などを用意してお祝いをし、農家では「夕ヱビス」といい、蕎麦を用意したという。一方、与市宅では、今まで朝夕ともに強飯(こわめし)・蕎麦を出していたのが、昨年から夕方の蕎麦のみになったことも記され、民俗行事の変化を伺うことができる。なお、日記には、安政6年10月20日の恵比寿講についても記されている。
ハレの日の道具ー婚礼ー
婚礼の歴史
人の一生には、その節目によってさまざまな行事がある。中でも「結婚」は子供を産むことにもつながり、家の存続に関わる重要なことだった。
江戸時代より前は婚礼(結婚式)を嫁の家で行い、そのまま嫁の家で独立した場所を与えられて生活を始める、「婿入り婚」が主流だったと考えられている。一定期間嫁の家で過ごすと、婿の家へ移ったという。これは女性の労働力が重要視されていたからだと考えられている。江戸時代になると、婚礼は婿方で行い、一定期間は嫁方で生活する、という「足入れ婚」も出てきて、次第に嫁入り婚が主流になっていったという。
現在では、生活環境の変化などにより、様々な婚礼の形がある。時代によって、結婚・出産に対する考え方も変化してきている。
婚礼の様子
婚礼は、現在は式場で行うことが一般的だが、昭和30年代くらいまでは、婿の家で行うことが主流だった。
かつてはほとんどが仲人(なこうど)を立てての見合いだった。見合い当日も嫁はお茶を出すだけで、婚礼当日にお互いの顔を見た、という話も多い。結納では結納金のほか、柳樽(やなぎだる)、鰹節、昆布、海老、するめ、トモシラガ(白の麻糸の束)などが渡された。婚礼の当日、嫁の自宅へ婿が出向き、婿と、嫁の両親・親戚の親子盃(さかずき)・兄弟盃が交わされた(「くれ祝言」)。その後、嫁を連れ、婿の家で婚礼が行われた。婚礼には親戚や隣組の人々が招待された。結婚は両家だけでなく、集落にとっても喜ばしいことだった。
祝言の様子(昭和36年/1961)
柳樽
三三九度の盃
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