「わがまち 懐かしの風景」展
2016年12月12日掲載
戦後まもない時代から現在までの約70年間に及ぶ内藤氏の作品を紹介します。
『まちの美術家』として、詩情豊かな水彩風景画を描いてきた内藤修次氏の多くの作品は、古き良き時代の富士宮市の記憶にある風景です。懐かしい里山や水辺の風景、そして町並みや社寺・学校などを描いた作品からは、人々の声・街の音・においといった心の風景が鮮やかに蘇えってきます。
内藤氏は、日本近代洋画の確立期に独自の画風で一時代を築き、富士宮市泉町を終のすみかとした曽宮一念との親交を通じ、師の絵に親しみ、数多くのスケッチ旅行に同行するなどの経験を重ねて、創作への情熱を肌で感じて、独自の創作世界をひろげてきました。
今回の展示では、「富士宮の懐かしい風景」を歴史資料として見ていただくよう企画致しました。
※作品の番号は、今回の展示にあたって選出した「内藤修次作品70選」の番号。
内藤修次年譜
年代 | できごと |
---|---|
昭和5年(1930) | 大宮町西町(現富士宮市西町)に生まれる。 |
昭和12年(1937) | 国民学校入学。 小学生時代を通じ書道教室に通い、山田愛山ら5人の書家に学ぶ。 |
昭和19年(1944) | 旧制中学校入学。 |
昭和22年(1947) | 富士地方中等学校文化連盟主催第一回美術展覧会で出品作「浅間神社本殿」が図画特賞受賞。 この作品が同展覧会の審査員だった曽宮一念の目に留まり、同氏のアトリエを訪ねるようになる。 |
昭和23年(1948) | 曽宮一念からスケッチと表現力の高さを評価され、美術学校進学を薦められるが、家業である衣料店を継ぐ決心をする。 |
昭和25年(1950) | 曽宮一念の門下生で構成する絵画グループ「彩友会」発足とともに入会。富士宮市内在住の多くの芸術作家と交流する。 |
昭和30年(1955) | 胸部疾患により手術入院。療養中、芸術作家など多くの仲間から見舞・激励を受ける。 |
昭和41年(1966) | 富士山本宮浅間大社へ富士絵馬「あかつきの愛鷹」を奉納する。 |
昭和49年(1974) | 彩友会を母体にした「富士宮美術協会」発足とともに入会。 |
昭和56~63年(1981~1988) | 「富士宮の懐かしい風景」に淡彩の絵筆を走らせて描いたスケッチが、富士宮郵便局製作の「オリジナル地域版絵葉書 富士山周辺の聚落」の原画に用いられる。 |
昭和63年(1988) | 『静岡県立富士宮北高等学校50周年記念誌』の中表紙に水彩画「69.北高並木道・秋」が用いられる。 |
平成9年(1997) | 『富士宮第三中学校50周年記念誌-白尾』に学区内寸描として4枚の水彩画が用いられる。 |
平成16年(2004) | 富士宮市役所市民ホール・富士宮市立西公民館で「懐かしのわがまち・富士宮百景水彩画個展」開催。 |
平成18年(2006) | ねんりんピック俳句交流大会in富士宮の開催に協賛し、昭和30年代に描いた水彩画作品を原画とした「ぬり絵」約50種類を高齢者の脳トレーニング用に製作する。 |
平成24年(2012) | 富士山環境交流プラザで特別企画展「写真と絵で見るわがまち・セピア色の記憶」開催。 |
なつかしの風景
里山の風景
内藤氏は大中里地区の田園風景を好んで描いている。
1:よしま池の西側にあった萱葺屋根の農家。
5:富士宮商工学校(現富士宮北高等学校)から望む天子ヶ岳。
9:大中里沢登付近から望む白尾山。
水辺の風景
28:橋の右手に、今はない泉の発電所がみられる。
29:湧玉池に掛かっている橋には欄干がない。これは太平洋戦争中の金属供出のためである。
35:よしま池の北側にあった水車小屋。水車は、近隣の人たちが精米などに利用していた。
街中の風景
44:旧別当村と呼ばれていた場所で、旧山川病院付近からの風景。左側奥に旧市役所や大宮小学校講堂が見える。
47:昭和23年(1948)の西町通りの風景。
49:現在、市民文化会館が建っている場所で、明治31年(1898)に開所した富士葉煙草専売公社が描かれている。専売公社は昭和42年(1967)まで存続した。
寺社の風景
「浅間神社本殿」:富士地方中等学校文化連盟主催・第1回美術展覧会で、図画特賞を受賞した作品である。この作品が同展覧会の審査員だった曽宮一念の目に留まり、同氏のアトリエを訪れるようになった。
56:現淀平町にある要行寺の田園風景を描いたもので、右側に大宮商工学校(現富士宮北高等学校)が見える。
61:黒田本光寺の祖師堂と庭園。
学校の風景
内藤氏の母校、富士宮北高等学校の並木道の四季を描いている。春の桜、夏の青葉、秋の銀杏黄葉は富士宮市民の憩いの場でもあった。現在、銀杏はなくなったが、春になると美しい桜並木を見ることができる。
なお、69は『富士宮北高等学校創立50周年記念誌』(昭和62年発行)の中表紙に掲載されている。
仲間たちとのふれあい
内藤氏は昭和30年(1955)に胸部疾患のため入院した。そのときに曽宮一念や仲間たちから、多くの見舞いや激励を受けた。また、昭和41年(1966)には曽宮一念と共に浅間大社に絵馬を奉納した。その後も自身の描いた作品が葉書のデザインに採用されたり、塗り絵になったりと様々な活躍をしている。
内藤氏が胸部疾患で入院したときに、自身も所属していた彩友会から送られた寄書き。彩友会とは、曽宮一念の門下生で構成する絵画グループである。この中には、富士宮市で活躍した和紙工芸家・後藤清吉郎も所属していた。
昭和40年(1965)12月に、浅間大社から様々な画家宛に、「昭和の富士絵馬」として後世に残すため、絵馬を奉納してほしいという趣意書が送られた。出品をためらっていた内藤氏に対し、「またとない機会だから、是非ともお書きなさい」と後押しした手紙。絵の技法についても書かれている。
内藤氏が浅間大社へと奉納した「富士絵馬」。曽宮一念に後押しされて制作した。
曽宮一念が描いた、内藤氏の肖像画。当時内藤氏は23歳の青年であった。「内藤美少年像」という画題からも、二人の親交の深さが伺える。
懐かしの風景今昔
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