「古絵図に見る北山用水」展
2011年05月31日掲載
天正10年(1582)、徳川家康が北山本門寺の願いにより、代官井出志摩守正次に開発させたと伝えられている北山用水について紹介します。
富士宮市内には、上野地域の大堰用水、沼久保・安居山地域の安沼用水、市街地を潤す渋沢用水、そして北山・山宮・外神などを灌漑している北山用水などの大規模な用水路があります。富士宮市はこれらの用水路の開発によって発展してきました。
北山用水は、天正10年(1582)に徳川家康が北山本門寺の願いにより、代官井出志摩守正次に開発させたと伝えられ、この由来から、北山用水は本門寺用水とも呼ばれています。
1.北山用水絵図
この絵図は今から約140年前の江戸時代終わりころのもので、内野の横手沢で芝川の水を取り入れ、上井出・北山・山宮・万野原新田・外神・宮原に流れ下る用水路が詳細に描かれています。
用水路には、富士山の沢に木製の箱樋を掛けて通水したり(掛樋)、木製の箱樋を地中に埋めて通水したりする(埋樋)などの工夫が見られ、当時の土木技術が優れていた事がわかります。
同時に、富士山から押し出す大水で樋が流されたり土砂が堀に流れ込んだりと、用水路の維持管理も大変だった事が想像され、富士山の自然災害と闘いながら、北山用水を守り続けてきた先人の知恵と苦悩を知ることができます。
北山用水絵図
2.北山用水の由来
北山用水(本門寺用水)の由来は、北山本門寺に次のように伝えられています。
『天正10年3月、徳川家康が武田勝頼追討の途中北山の陣屋に宿泊した時、家康を訪ねた本門寺貫首日出上人の年令が88歳で、日出の名前が日出るという大変縁起のよいもので武運長久の兆であると家康は感激し、陣中守護の御本尊の借用を願い出た。本門寺は一幅だけあった日蓮上人御真筆の御本尊を貸し与えた。
家康はこれを馬前に立て奮闘した。戦いの最中、武田方の打った弾丸が御本尊の花押に的中し、家康は危く難を免れることができた。天正10年5月、家康は勝利の帰途御本尊の御礼に本門寺に詣で、御本尊を返納し武運長久の祈念を願った。
この時、家康から日出上人に所望するものがあれば「何なりと申出られよ」との仰せ付けがあったので、日出上人は当地方の用水の実状を訴え用水路の開発を請願した。家康は家臣の井出正次に用水路の開削を命じ、用水路は天正10年8月朔日に工事を始め、11月15日に完成し通水した。』(『本門寺並直末寺院縁起』重須本門寺編参照)
3.開発当初の北山用水
井出正次手形 (北山本門寺文書)
横手沢村 芝川井口百間四方也 井路弐里余 堀幅三間通リ也
右者蒙上意令除地 通水村々之以人足堀渡畢 永々諸役者村々之可為懸 茲ニ為水番与堀久保百姓四軒除之置所也
天正十年 井出甚之助
午十一月 正次(花押)
この文書は、徳川家康の命を受けて北山用水を開発した井出正次が、天正10年(1582)11月に出した手形です。その内容から、開発当初の用水の様子がわかります。
(1) 井口(取入口)は横手沢村の芝川に設け、規模は百間四方であった。
(百間四方は約180m×180m)
(2) 用水路の長さは二里余、堀の幅は三間であった。
(二里余は約8㎞、三間は約5.4m)
北山用水の横手沢—本門寺間の長さは約7㎞で、最初にこの間の開削が行われたと推定されます。
(3) 井口及び用水路部分の土地は無年貢地とした。
(4) 工事は関係村々の人足で行った。
(5) 維持管理は関係村々の負担とした。
(6) 水番として堀久保の百姓四軒をあてた。
堀久保の百姓を水番としたのは、用水が開削されるまでは堀久保(志田水)にあった湧水が使われていた事に関連するものと思われます。
4.北山用水と万野用水
万野用水は慶長15年(1610)に伊奈備前守によって開削されたと伝えられていますが、十分な水が得られなかったためか万野原の開墾は失敗に終わり、万野用水も使われなくなってしまったようです。
その200年後の文化7年(1810)に再び万野原の開墾が計画され、飲用水確保のため新用水路が開削されました。その方法は、横手沢の北山用水取入口の下流に万野用水取入口を設け、約500m下流の横手沢熊野橋付近で北山用水路に合流し、本妙寺裏の山宮用水分水点で合流した水と同じ水量を分水し、万野原まで通水するというものでした。この時水量を図るため、内法高さ1尺(約30㎝)横2尺(約60㎝)の石樋を合流点と分水点に設置しました。現在、この石樋は取り外され、万野原新田の琴平神社境内に保存されています。
この時、これまでは各村々への分水量についての定めがなかったので、村々の石高に応じて分水量を定め、万野原まで水が来るようにしました。
琴平神社境内に保存されている「石樋」
5.用水の維持
北山用水は、途中で富士山の沢(現在の名称で猪の窪川・邯鄲沢・潤井川・竹沢・大久保沢・志田水沢・鞍骨沢・春沢)を、埋樋や掛樋によって越えていました。
*掛樋(かけどい・かけひ):沢に箱樋を掛けて通水する
*埋樋(うめどい・うめひ):地中に箱樋を埋めて通水する
これらの沢は、普段は枯れ沢ですが富士山に大雨が降ると土砂を伴う大水を発生させ、取入口の堰や沢を渡る樋を押し流したり堀を砂で埋めたりなど大きな被害をもたらしました。
毎年関係村々で費用を分担して修理をしていましたが、大きな被害が出ると領主にお願いし費用を負担してもらいました。
犬久保沢(現猪の窪川)・邯鄲沢・上井出河原(現潤井川)のように、江戸時代の終わりころには、掛樋から被害を受けにくい埋樋に造り替えられたものもありましたが、大久保沢は深さが10m以上もある深い谷で、掛樋で通水するより他に方法がなく、大水によって掛樋の柱が再三流失し村人を苦しめていました。
その大久保沢掛樋の修復工事の入用見積り帳(見積書・設計書)が残っています。これによると掛樋の長さは18間(約33m)もあり、富士山御林で育っていた長さ5間(約9.1m)もある大木を工事現場に運び、箱樋を支える柱にするとか、柱は地中に4尺(約1.2m)埋めて立てるなど、工事も大がかりなものであった事がわかります。
また、材料の大きさやその使い方が詳しく書かれていて、当時の掛樋の構造を知ることができます。
大久保沢掛樋改修絵図 時期不詳 縦69㎝・横65㎝
水色が北山用水で、中央の橋のような形をしたものが掛樋です。横に「長弐拾間(長さ約36m) 敷六尺(幅約1.8m) 御普請御樋」と書かれています。
6.水争い
北山用水を利用している村々の間では、本流(上流)の北山村と支流(流末)の村々との間で水争いがしばしば起きています。流末の外神村・宮原村・山宮村・大宮町万野原などでは、水が来ないということは飲用水が確保できないということでしたので、より深刻な問題でした。江戸時代の終わり頃にはこれらの村々では、水が来ないのは北山村が勝手に畑を田んぼに替え、自分勝手に水を使っているからだと訴えを起こしています。
また、北山用水を利用している村々と、芝川流域の村々との間でも水争いが起こりました。その代表的な事件が明治21年の水争いです。そのときの様子は、
「安政元年4月の大地震は芝川の湧水を漸減し、用水不足は明治21年その極に達したために本流側北山用水側の農民数千人が鍬鎌を手に取水紛争を起こすまでに発展し、時の県議会議員白糸村佐野幸作・大宮町池谷佐平・岩松村影山秀樹3氏の仲裁によって分水の基本となる川底石を敷設し、明治22年6月24日初めて用水の分水契約が成立された。」(「大井口分水施設改修之碑」より)というものでした。
明治22年和解契約書添付絵図
昭和2年には、度重なる芝川の洪水で取入口の川底が流され水量標が流失し、分水量が不均衡となっていたため、契約書を改訂して改修工事を行っています。また昭和30年には、川底石(基盤石)を修復し固定する工事を行っています。
昭和42年以降用水路のコンクリート三面舗装が進み、昭和51・52年に取入口の大規模な改修工事を行い、安定した水量が確保できるようになりました。
明治22年に芝川川床に設置されたの水底石(基盤石)。昭和52年に補強工事が行われましたが、当時と同じ位置にあります。
北山用水年表
年 | 内容 |
---|---|
天正10年(1582) | 井出志摩守、徳川家康の命により北山用水(本門寺用水)開削 |
慶長15年(1610) | 伊奈備前守、万野用水(備前堀)開削 |
享保12年(1727) | 大久保沢掛樋普請 |
宝暦元年(1751) | 大久保沢掛樋普請 |
宝暦4年(1754) | 大水で用水の堰7ヶ所流失 |
宝暦8年(1758) | 大水で大河原切れ用水に砂が入る |
宝暦14年(1764) | 大久保沢掛樋破損、2年後に修復される |
寛政3年(1791) | 無間ヶ谷大水押し出し、見崎戸と上井出河原の堰を押し流す |
文化7年(1810) | 万野原再開発のため万野用水取入口新設。用水路沿い村々の分水量を定める |
文化8年(1811) | 大久保沢掛樋普請 |
文化11年(1814) | 7月の大雨で井口及び堰7ヶ所流失普請 |
文政3年(1820) | 7月の大雨で井口及び堰残らず流失普請 |
文政8年(1825) | 犬久保沢・邯鄲沢堰普請を願い出る |
天保2年(1831) | 万野原へ飲料水通水のため上井出河原より新規用水堀が計画される |
天保4年(1833) | 用水筋の8ヶ村、文化7年の規定を守ることを確認する |
天保5年(1834) | 大雨で井筋が砂で埋まり邯鄲沢掛樋流失、邯鄲沢掛樋普請、犬久保沢埋樋普請 |
天保6年(1835) | 大久保沢掛樋普請 |
天保14年(1843) | 大久保沢掛樋普請、犬久保沢埋樋普請 |
弘化3年(1846) | 邯鄲沢掛樋普請 |
嘉永3年(1850) | 大久保沢掛樋普請 |
安政4年(1857) | 大雨で井口石枠・邯鄲沢掛樋等流失普請 |
文久元年(1861) | 邯鄲沢埋樋普請で上井出村と北山村外六ヶ村との間で訴訟 |
文久2年(1862) | 邯鄲沢及び上井出河原埋樋普請か |
慶応2年(1866) | 大久保沢掛樋普請 |
明治2年(1869) | 犬久保沢埋樋普請 |
明治22年(1889) | 取入口川底石敷設、北山用水筋村々と芝川流域村々との間で分水契約成立 |
昭和2年(1927) | 取入口水量標を明治22年当時に復旧 |
昭和7年(1932) | 取入口石枠をコンクリート枠にする |
昭和31年(1956) | 取入口基盤石工事 |
昭和42年(1967) | 北山用水路の三面舗装4.1㎞完成 |
昭和53年(1978) | 大井口(取入口)分水施設改修工事完成 |
昭和58年(1983) | 本妙寺裏分水までの改良工事完成 |
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